5反逆 6無 7愛する人たち 8覚醒

5 反逆

人は、恐れている。自分を知ってしまっ人々のことをとても恐れている。こういう人々というのは、独特の力を持っている。独特のオーラがある。独特の磁力がある。因習的な束縛から若者を解き放ち、生き返らせるカリスマがある。

悟った人を奴隷にすることは不可能だ。それは、困難極まること。悟った人を投獄するのは不可能だ。「内」をいくぶんでも知ってしまった天才達をなびかせようとするのは、容易ではない。脅威となるだろう。群衆巻き込まれるのを嫌がる。自分が惨めであろうとも。群衆は悲惨な人生を送っているが、その惨めさに慣れ親しんでいる。惨めでない人は、異邦人に見える。

悟りを開いた人というのは、世間では最大の異邦人だ。どこにも所属していないように見える。どの組織も封じ込めることが出来ない。どんな社会も、どんな国家も。

6 無

仏陀は、実に可能性を含んだ言葉を選んできた。その一つが「無」。その英訳nothingnessには、その美しさはない。

だから私は、no-thingnessとハイフンを入れたくなるのだ。というのも無nothing「無」は、ただnothing「何も無い」ということではないのだから。無がすべてなのだ。無が可能性のすべてと躍動している。無は、可能性。絶対的可能性。無は、表には出てこない、がすべてを含んでいる。

始めは、自然であり、終わりも自然である。だとしたらその間をなぜそんなに大騒ぎする? なぜそんなに心配をし、気に病み、野心を抱くのかね?なぜそんなに絶望するのかね?

無から無へ、それが旅のすべてなのだ。

7 愛する人たち

3つのことに気をつけておかねばならない。一番低いレベルの愛が、セックス。それは肉体的なもの。そして一番高い次元の愛が、慈悲。セックスは愛以下であり、慈悲は愛以上。愛は、まさにその中間。

愛とは何かを知る人は、ほとんどいない。99%の人は不幸なことに、セックスが愛だと考えている。そうではない。セックスはとても動物的なもの。確かに愛に育つ可能性は秘めている。しかし、それは実のところ愛ではない。一つの可能性に過ぎない。

気づくことが出来るようになり、油断なく醒めていられたなら、セックスは愛に変容する可能性がある。そしてその覚醒が限りなく完全なものになったなら、愛が慈悲へと変容する可能性が出てくる。種がセックス、花が愛、その芳香が慈悲だ。

8 覚醒

雑念があれば聡明な人間になることは、永遠にありえない。無になることだけが聡明な人間を生み出す。無からオリジナルが生まれる。無から革命的アイデアが沸き起ってくる。無だけが革命だ。行動の革命を起こす。

雑念があれば、感覚が麻痺する。過去の記憶に押しつぶされ、未来の予測に押しつぶされながら、人は最低限の生を引きずりつづける。最大限生きることはない。炎はかすかに火がついている程度。ひとたび雑念を落とし始めれば、昔集めたガラクタを落とし始めれば、炎が燃え上がる。きれいで、クリアーで、生気に満ちて、若々しい炎が。人生全体が、炎になり、煙はたたない。その状態が、覚醒だ。

仏陀は、慈悲を「愛+瞑想」と定義した。愛が、たんに相手を欲しがる欲求ではなく、愛がたんに必要だからではなく、愛が分かちあいであり、物乞いの愛ではなく、皇帝の愛であるとき、愛が何の見返りも求めず、進んで与えること、与えるのがただ喜びであるがゆえに与えることであるとき、その愛に瞑想が付け加わり、純な芳香が放たれる。それが慈悲であり、慈悲こそが最大の現象なのだ。


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